グイノ神父の説教

 

2023 A 年

年間第2主日から

年間第12主日まで

   

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             年間第2主日  A 年  2023115日  グイノ・ジェラール神父

               イザヤ 49,35-6     1コリント 1,1-3      ヨハネ 1,29-34

 今日の典礼の朗読を受けて、私たちは預言者イザヤのように神は「ご自分の(しもべ)として」私たちを選ばれました。それは私たちが国々の光となるためです。確かに、この光の象徴として、洗礼を受けた日に私たちは灯された一本のロウソクを手に受け取りました。同時に司祭は次のように宣言しました。「あなたはキリストの光を世に輝かす者となりました」と。

 また聖パウロと共に「私たちは聖徒として召され、キリスト・イエスにあって清められた神の民です」と。これこそが私たちアイデンティティであり、キリスト者としての厳です。キリストの内に洗礼を受け、聖霊の恵みで満たされた私たちの使命は、ますますイエスを真似ること、そして世の救いのために働くことです。「私たちはキリストを衣として着ている」なら、生涯にわたって私たちの周りに救い主であるキリストの光を輝かすはずです。キリストを着ることは自分の生き方を通してイエスを人々に見せることです。

 洗礼者ヨハネはイエスを「世の罪を取り除く小羊」として紹介しました。この言い方をミサに与るたびに私たちはよく繰り返しています。ですからこの文言を習慣として宣言するのではなく、伝えている意味について注意深く考える必要があると思います。

 創世記によるとアベルは神に最初の小羊をいけにえとして捧げました。その結果、神はアベルとその捧げ物を大いに歓迎しました(参照:創世記 4,4)。また出エジプト記では、ほふられた小羊がイスラエル人をエジプト人の奴隷から救い、約束の地への道を開いたと述べています(出エジプト12,4-14)。さらに、軽蔑され、暴力を受け、殺されると預言された、預言者イザヤの小羊も救いと解放の泉になります(参照:イザヤ536-7)。

 洗礼者ヨハネは神の小羊の内に私たちを悪から救うためにご自分の命をささげる本当の救い主を見分けました。実に、キリスト・イエスだけが私たちを救うこと、新たにすること、ご自分の霊を与えることができます。そいう訳で、神の僕たち、世の光、キリストの教会と聖霊の神殿である私たちは自信をもって次の言葉を宣言しましょう。「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力です」(参照:イザヤ49,5)。

 ミサ祭儀に与かるたびに、司祭はキリストの御体を私たちに見せながら、洗礼者ヨハネの言葉を宣言します。「世の罪を取り除く神の小羊」と。そして私たちは常に謙遜な心で「主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。お言葉をいただくだけで救われます」と答えて、証ししています。聖体拝領の時にイエスと共に永遠に生きるために私たちは実際にこの小羊であるキリストを糧としていただきます。

 確かに、イエスと一致することで、聖霊が私たちの内にとどまり、働きます。そして神は私たちを通して世界の上に平和と命の光を注ぐのです。この事実を固く、強く信じましょう。アーメン。

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      年間第3主日  A年   2023122日  グイノ・ジェラール神父

         イザヤ8,23-9,3     1コリント1,10-1317     マタイ 4,12-23

 イエスの宣教活動は洗礼者ヨハネのやり方によく似ていて、彼らは同じことを宣言しています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。洗礼者ヨハネは道徳的な言葉を宣言します。彼は神の裁きから逃れるために、人々に罪の暗闇と悪の道を捨てるように誘います。一方、イエスは自由を得させる言葉を宣言します。人々が神に向うことによって神の光が彼らの心に入り込むようにイエスは誘います。

 洗礼者ヨハネは砂漠のヨルダン川の近くで、洗礼を受けるために人々が自分の方へ来るのを待っています。イエスは絶えず自分が移動しながら人々の方へ出向いて行き、人々が自分に従うようにと招きます。また、体の不自由な人や病人、不潔な者あるいは罪びとでさえも自分に触れることを許しています。そのようなイエスの態度がファリサイ派の人々と律法学者を非常に憤慨させました。ファリサイ派の人々はイエスが律法を守らないことを厳しく非難しました。

 昔も今日もイエスは自分を「真理と命の道」として、自己紹介しています(参照:ヨハネ4,6)。また、私たちの暗闇を照らす光として自己紹介します(参照:ヨハネ8,12)。この事実を預言者イザヤとマタイが宣言しています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と。ペトロとアンドレそしてヤコブとヨハネは、この光に従うために全てを捨てました。神の国が彼らに近寄ったので、彼らは照らされたのです。そこで命の道のイエスに従うことに決めました。

 今日もイエスは私たちの教会で一人ひとりの直ぐ傍に近寄って、一緒に歩むように誘っています。私たちが日ごとに、イエスと共に生きるなら、イエスは実際に私たちの暗闇を照らす者、私たちの恐れと疑問を追い払う者として証しするのです。確かに、イエスに従うことによって人は、イエスと同じように、「世の光」となります(参照:マタイ 5,14)。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」とイエスは願っています。この呼びかけは、私たちの返事を要求します。なぜなら、今日イエスが聞かせたこの言葉が、これから5週間の間でイエスが与える教えを理解するように準備をさせるからです。イエスは神の国の幸福の言葉を宣言するでしょう。「あなたがたは幸いである」、「あなたがたは世の光である」。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(参照:マタイ5,3-125,145,175,486,33)。これらはイエスの教えの大切な土台です。

 「神の言葉の主日」に当たってイエスの回心への招きに答えましょう。回心すること、それは自分の内に「聞き分ける心」(参照:列王記上3,9)を作ることです。アーメン。

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         年間第4主日  A  2023129日      グイノ・ジェラール神父

            ゼファニア2,33,12-13    1コリント1,26-31    マタイ5,1-12

  イエスが提案する幸福のメッセージは、私たちが求める価値観に反しています。 私たちの世界は、強さ、力、エネルギー、成功、富を高く評価しています。しかし、イエスは、小さい者、弱い者、へりくだった者、何も持っていない者、無視されている者を大切にし、模範とします。イエスの言葉によって、私たち一人ひとりは心の奥底で不安を感じ、またこの教えから遠く離れていることをよく知っています。

 実際、イエスはご自身の肖像画を私たちに見せてくれます。 聖マタイのテキストは、イエスが実際に経験したことを教えてくれます。これについて少し考えてみましょう。 父なる神の御子であるイエスは心の貧しい方です。 私たちを圧迫するすべてのものを引き受けるために、イエスは柔和で謙虚な者になりました(参照:マタイ11, 29 )。イエスはエルサレムの滅びを思い、また、友人のラザロの墓の前で泣きました(参照:ヨハネ11,35)。イエスは生涯にわたって、罪人に憐れみを示し、病人を慰めました。またイエスは勇気をもって、ピラトと大祭司たちの前で真理をはっきりと証ししました(参照: マタイ26,63-64 )。イエスは王国の義のために迫害を受け、十字架の血によって平和を築きました(参照:コロサイ1,20)。

  イエスの言葉と彼の生き方の模範は、お金、権力、プライドに魅了されることを拒否して、自由に生きることを選択するよう私たちを招きます。イエスは私たちに、暴力を拒否し、偏見や嫉妬を持たずにありのままの相手を歓迎するよう求めています。イエスが流した涙は、苦しんでいる人々と私たちを結びつける思いやりと慈しみの涙です。

   心の清さは、視線を覆い隠すものや「神を見る」ことを妨げるものを追い払います。心の純粋さは、裏のある態度偽善、嘘を拒否します。イエスの平和は、赦すこと、神と隣人に和解する意志を要求しています。平和を作る人は神に似ているとイエスは私たちに言っています。迫害を受けると、人の誤解や嘲りにもかかわらず、私たちは自分の言葉と行いを勇気を持って福音の教えにあわせることができるのです。

  イエスの言葉は、私たち一人ひとりに向けられています。キリストに信仰を置いてキリストに従うことを選んだ人は誰でも、イエスと同じ道を歩まなければなりません。 この道は、神に直接つながる聖性への道だからです。イエスは今日、幸福への鍵をつかむように私たちに求めています。「あなたは幸いです」とイエスは宣言します。

  この言葉は、イエスの体と血をいただく時に司祭が私たちに繰り返します。「神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」。聖体拝領によって、キリストの体となるのは、「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに生きるためである」ことを思い出しましょう。 実に「私たちは幸せだ!」と宣言しましょう。聖パウロと共に、「わたしにとって、生きるとはキリストです」(参照:フィリピ 1,21)、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(参照 : ガラテ2,20)と言うことができれば幸いです。 アーメン。

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          年間第5主日 A年   202325日   グイノ・ジェラール神父

                 イザヤ 58,7-10   1コリント2,1-5  マタイ5,13-16

 通常、塩が不足していない限り、スープに塩が含まれていることは気づきません。 同様に、暗闇に直面しなければならない場合を除いて、私たちは光に注意を向けていません。私たちが塩と光に感謝するのは、味付けの欠如と停電がある時だけだと思います。

 私たちの周りにいる多くの人々の生活もそうです。彼らはあまり目立たないので、通常、私たちは彼らのうちにある豊かさに気づきません。出会う人々の本当の顔を私たちに明らかに示すのは聖霊だけです。22日に、私たちは主の奉献の祝日を公に祝いました。シメオンが聖霊に導かれたからこそ、マリアの子を抱いて、イエスが「諸国民の光、イスラエルのメシア」という事実を認めることができました。(参照: ルカ 227-32)

 「私たちは世の光であり、地の塩である」と言ってイエスは、私たちに挑戦します。 キリスト者たちは他の人よりも優れているわけではありませんが、私たちは信仰の宝と神の言葉の豊かさを受けました。ですから、このことについて私たちは証言しなければなりません。その務めを慎み深さをもって行うように、神は私たちに願っています。なぜなら、塩分が多すぎると食べ物が食べられなくなり、光が強すぎると、眩しくて目がくらむからです。

 節度をもって使用される塩と光は、物事を明らかにします。食べ物は塩を受ける前からあり、またどんな街でも人々は街灯がつく前から住んでいました。しかし、塩は食べ物の味をよりよく引き立て、光は人々と世界の美しさを見事に引き出します。そういう訳で、この世界と人類をよりよくするためにキリスト者たちが必要なのです。

 塩光となるためには、敬意と謙虚さを持って愛さなければなりません。なぜなら、高めるのは私たちの内々の評判ではなく、私たちの周りの人々の評判を一層高めるべきです。自分の信仰を証し、救いの良い知らせを宣言することは、慈悲深く、注意深い態度でのみ行うことができます。

 イエスははっきりと言っています。「人々は私たちの良い行いを見るべきだ」と。行動することは とても簡単です。次のことが今日預言者イザヤの勧めたことです。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で...主の栄光があなたのしんがりを守る」(参照:イザヤ58, 7-8)と。

 先週の日曜日、イエスは私たちにこう言いました。「
柔和な人々は、幸いである、義に飢え渇く人々は、幸いである。平和を実現する人々は、幸いである」と。暴力に苦しむ世界で、平和の言葉を聞かせることができるとき、私たちは幸せです。 軽蔑と不信の世界で、私たちが笑顔で人々を歓迎し、誰に対しても親切であることを選択するとき、私たちは幸せです。私たちがこれらのことを謙虚に実践するならば、本当にその時こそ、私たちは「地の塩、世の光」になります。そして、私たちの立派な行いを見て人々は、喜び溢れる心をもって、神をあがめ、神に栄光を帰することができるでしょう。アーメン。

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             年間第6主日 A年  2023212日   グイノ・ジェラール神父

              シラ書 15, 15-20    1 コリント 2, 6-10    マタイ 5, 17-37

   先週の日曜日の福音は私たちに「地の塩」、「世の光」になるよう求めました。しかし、今日、イエスはより厳しいものを求めています。その理由は、イエスは確かに愛の完成にまで私たちを導きたいと思っているからです。

   イエスは、私たちの存在全体にかかわる道を私たちのために開いてくださいます。 そういう訳で、人間の手と目と口を使っての教えで語っているのです。身振り、視線、話し方などを自分の教えの内容とします。それは 他者との関係において、私たちの存在全体に関わるものだからです。神と隣人を愛するために、イエスは私たちに 三つの道を示しています。それは、手振りの優しさ、眼差しのまっすぐさ、言葉の誠実さです。 「まず行って兄弟と仲直りをしなさい・・・右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい・・・あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」とイエスは私たちに教えます。

   優しさと暴力、緊張と憤りは私たちの人間関係に満ちています。しかし、和解はいつでも可能です。この和解は、間違いなく、私たちが主に捧げることのできる最も美しい捧げ物です。貪欲、ねたみ、軽蔑などによって目を曇らせずに他人を見ることは至難の業であり、とても難しいことです。そのために、イエスと同じ眼差しですべてを見るように私たちは招かれています。つまり、相手を引き立て、相手を尊重し、相手を「使用物」のようにしない眼差しを持つことです。最後に、互いの信頼の内に人々と共に生きるためには、曖昧さや仄めかしがなく、真実である言葉で話すことが不可欠です。

  イエスは律法学者やファリサイ派の人のようには教えません。イエスの言葉は正確で、それを受け止める人々の心に直接に触れ、動かします。「すべての人に親切にしなさい。あなたの美しい愛と輝く眼差しも、あなたの言葉も真実であるように」とイエスは私たちに勧めています。イエスがこれらのすべての要求を、呼びかけとして、静かに、柔和な心で私たちに与えてくださるのです。「イエスは人の心の中にあるものをご存じです」(ヨハネ 224-25)と、聖ヨハネは言っています。

  確かに、イエスは私たち人間の弱さと欠点をよく知っていますが、私たちに可能なこともすべて知っています。イエスは私たちが何者であるかだけでなく、私たちが何者になることができるかを見ようとしています。それが「地の塩、世の光」になることです。

  人が「水」か「火」か、を選べるように、神は私たちに自由を与えられました。「水」は豊穣と生命のしるしであり、「火」は裁きと死のしるしです。しかし、私たちが最大の試練に置かれている時でも、神は常に私たちが命を選ぶように必ず助けてくださいます。なぜなら、神は命であり、私たちの命そのものですから。実際、試練や思いがけない出来事に出会う時に、聖パウロがコリント人への手紙で語った、あの不思議で神秘的な知恵の力を神は私たちに与えてくださいます。

  この神の知恵を無視することで、私たちは死を選ぶことができ、愛を拒否することもできます。しかし、命を選ぶなら私たちは、徐々に神に似ることができて、愛の完成に到達することができます。私たちが正しい選択ができるように、イエスがこの知恵で私たちを満たし、助けてくださいますように、一緒に祈りましょう。 アーメン。

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           年間第7主日   A 年  2023219日   グイノ・ジェラール神父

                レビ記19,1-217-18  1コリント3,16-23  マタイ5,38-48

  私たちは幼い頃から親に自分自身の暴力的な行為をコントロルすることと共に、人に攻撃されたら自分の身を守るように教えられています。私たちはそれを学び愛する人たちに伝えています。「誰かがあなたのものを手に入れたいと思ったら、自分を守り、彼にあなたの財産を奪わせないでください」というのは一般的な常識です。

  それでもイエスは次のように言って私たちを納得させます。「確かにあなた方は攻撃されたときに自分を守ることを学びましたが、私は悪者に言い返してはいけませんと願います。悪人に手向かってはならない。下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。これこそが私があなた方に教えている愛の法則です」と。

 イエスは、山でご自分のそばに集まった愛する弟子たちに、より多くのものを得るために学んだことを捨てるように求めています。「あなたは色々学びました・・・しかし、私はずっと残る、豊かな実を結ぶ道をあなたがたに示しています」(参照:ヨハネ15:16)と。

 神が完全であるように、私たちは完全になるよう招かれています。「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます」。神は絶えず良いを行います。すべての人、悪人にも善人にも必要なものを与えます。イエスは、愛の証しをもって悪の勢力を食い止めるように弟子たちに望んでいます。 神への愛と隣人への愛の証しです。アッシジの聖フランチェスコの祈りが教えているように、イエスの弟子たちは、暴力、憎しみ、侮辱、悪の闇がある所に、光、優しさ、愛、赦しと平和をもたらさなければなりません。

 実に、これを達成するのは簡単ではないことを私たちは知っています。なぜなら、親が私たちに教えてくれた自己防衛と自分の身を守る保身の本能が私たちにはあるからです。しかし、自分の無力さを認める者には、神は必ず力を与えてくださいます。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか」とイエスは尋ねます。愛する者の報酬は、もっと愛することです。 確かに、愛はますます愛すること以外に報酬をもたらしません。 このように、イエスは、自分を十字架につけた人々の愛のために命を捧げました。

 愛することの可能性を広げるためには、間違いなく私たちは愛のないところに行かなければなりません。 私たちを迫害し、軽蔑し、悪口を言う敵を愛するようにイエスは、私たちに求めています。神は私たちの心をご自分の心の大きさにまで広げたいと思っています。ですから、聖霊の力と知恵を私たちに豊かに与えてくださるように祈りましょう。神が完全であるように、私たちも完全になりたいのなら、私たちはこれまで以上に愛し続け、もっともっと、愛さなければなりません。 アーメン。

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         年間第11主日   A年  2023618日  グイノ・ジェラール神父

           出エジプト記19,2-6     ローマ 5,6-11     マタイ 9,3610,8

 世界が神と和解できるように、イエスは私たちに召命のために祈るよう求めています。神はモーセに、私たちすべてを「祭司の王国、聖なる国」にすることを約束されました。 神が世界中に派遣することを選んだ司祭たちは、神への取り次ぎ、世界のあがないと救いのためにキリストと結ばれてミサ祭儀を祝うという使命を持っています(参照:ヘブライ7, 27)

 世界中の人々へと遣わされた司祭たちは神の愛を告げ知らせ、人々の心に愛への道を開きます。しかし、すべてのキリスト者も、神が御子の死と復活を通して、私たちをご自身と和解させてくださったことを知らせる使命があります。私たち一人ひとりは、自分の生き方で、神が私たちに抱く愛を明らかに表現するために、神によって選ばれ、送り出されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです」(参照 :ヨハネ 3,16)。

 群衆を見て、イエスは彼らを深く憐れみました、とマタイは語っています。疲れ果てて、打ちひしがれて、絶望したりする人の数が増え続けているので、イエスは今日でも彼らを深く憐れみます。世界の中には何も信じない無神論者が多く、宗教的召命は絶えず減少しています。また至る所で、目立つ事実ですが、小教区の共同体は、若者の不足のために高齢化しています。「天の国は近づいた」とイエスは宣言します。勿論、イエスは 近いうちに死にゆく人々のために言っているのではなく、むしろ、神に近づくように私たちを励ますために言っています。

 間違いなく、私たちは皆、自分の人生の中で神の過ぎ越しと働きを再発見する必要があります。同時に 私たちと私たちの愛する人たちに対して神の愛と慈しみのしるしをも再発見することが肝心です。私たちは決して独りではありません。なぜなら、イエスは世の終わりまで私たちの直ぐ傍にいてくださるからです。そういう理由で神の国が私たちにとても近いのです。

 収穫は多いのですが働き手が非常に少なくなりました。そういう訳で、主は人々に奉仕するように呼びかけ続けています。イエスの呼びかけに対する反応は、私たちの目と心にあります。イエスに倣って、私たちはまず、人類が苦しみと戦争によって引き裂かれ、新型コロナウィルスと物価の上昇によって疲れ果て、落胆している事実をはっきり見なければなりません。また、第三世界の搾取された子供たちと、いつわりや麻薬の罠にはまってしまうすべての人々に目を向けなければなりません。

 これらの直すべき病気や癒すべき苦しみに直面して私たちは、落胆することはできません。まず、第一に即座に祈る反射神経が必要です。福音宣教はいつも祈りと執成しに深く根を下ろします。ですから、諦めずに祈りましょう。そして、世界の暗闇の中で燃える、輝希望の炎になろう。 アーメン。

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          年間第12主日  A年 2023625日   グイノ・ジェラール神父

           エレミヤ 20, 10-13    ローマ 5, 12-15     マタイ10, 26-33

 預言者エレミヤは、自分を脅かす者に直面しても、自分を守ろうとはせず、神に信頼を置きます。このように行動することによって、エレミヤは恐れから抜け出し、信仰への鍵となる「人々を恐れるな」という言葉を私たちに告げました。イエスは預言者エレミヤが示した信頼を私たちも表すよう私たちを招いています。

 恐れから救う神の無限の愛を信じることは、容易なことではありません。しかし、死に打ち勝ったキリストは私たちを助けることができると、聖パウロはローマ人への手紙の中で述べています。罪と死はすべての人に及びます。しかし、キリストが与えてくださる救いは、人生の試練を乗り越えるための確信と勇気を私たちに与えてくれます。世の終わりまで私たちと共にいてくださるイエスは、試練の時に私たちの最も確かな支えです。

 神が不正を望んでおらず、それを耐え忍んでいることを私たちは知っています。神は死を望んでいませんが、死を耐え忍んでいます。神は信者を試練から守りませんが、試練に耐え忍耐、必要に応じて赦す力を私たちに与えてくださいます。私たちはまた、神が人の弱さの中に常にご自分の力を発揮されることも私たちは知っています (参照: 2 コリント 12, 9)

 私たちは、神が与えてくださる力にり頼むことによってのみ、試練を耐え忍び、恐れを遠ざけることができます。神は私たちの岩であり、避難所であり、私たちの心から恐れを取り除く城壁です。私たちが敵意、反抗、嘲笑に直面しても、神は必ずいつものように、私たちにそれ抵抗し、赦す力を与えてくださいます。それを十分信じているでしょうか。 キリスト者である私たちにとって「生きること」は、困難や私たちに危害を加えようとする人々を恐れることではありません。たちにとって「生きることはキリストです」(参照:ピリピ人への手紙121)。つまり、「生きるとは、イエスのように神のうちに揺るぎない信頼を置くことです。

 もちろん、それを実現するのは、簡単ではないことはわかっています。 聖書は、神の呼びかけに応えた人々の失望についてしばしば思い起こさせます。モーセの放棄の誘惑(出エジプト記32)、エリヤの落胆(列王紀上19章)、ヨナの憂鬱(ヨナ4章)、エレミヤの苦い幻滅(エレミヤ2章)、ヨブの悲劇を忘れることなく思い起こしましょう。 ゲッセマネの劇的な夜に、イエスご自身がこの状況から逃れることができませんでした。

 聖パウロにとって、救いの歴史において最も重要な人物はアダムではなくキリストです。 決定的な時は、原罪の時ではなく、復活祭の勝利の時です。また、重要なのは、闇と失敗の苦しみではなく、復活の喜びと光です。

人々を恐れるなとイエスは私たちに繰り返して励まします。神が私たちに与えてくださる強さ、自信、希望を人間の力で打ち砕くことはできません。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない…だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」とイエスは私たちに思い起こさせます。

 ですから、恐れることなく、私たちの力、希望、そして救いである神における私たちの信仰を宣言しましょう。 アーメン。



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